差別と常識を考える。
2017年11月2日皆さまどうも。蒼宗です。
1日1更新、途切れてしまいましたが始めていきます。
今日は2本更新で参ります。
MLBのワールドシリーズ、アストロズが優勝でしたね。
7戦にわたる激闘となりました。
先輩のダルビッシュ投手にとってはホントに苦しいワールドシリーズとなりましたが、この試合結果をきっかけに、またこの大舞台に戻ってきてくれると思います。
そんなダルビッシュ投手には、自身の投球以外でもトラブルがありました。
ワールドシリーズ3戦目、ダルビッシュ投手からホームランを放ったグリエル選手が、「アジア人を馬鹿にするポーズ」をとったとしてリーグから処分が下されました。
一方で、された側のダルビッシュ投手はどこ吹く風。
それどころか「彼はここから学ぶでしょう。私達はみんな人間だ。」と神対応ぶりでした。
私もこの話を友達から聞くまでは、グリエル選手の行為が差別表現である、という認識は全くなく、ダルビッシュ投手のコメント、対応を見てもそこまで苛立ちなどを覚えているような印象はありませんでした。
こういう差別的な事に対するアメリカの対応の早さはやはり「人種のるつぼ」ならではなのかな、と思ってしまいました。
私個人の感覚ですが、差別などに敏感なのは、そういう事をしてきた(あるいはされてきた)事が前提にあるのだと考えています。
しかも、それが自分だけでなく、周囲に認知されていること。それが今回でも「これはダメでしょ」という結果に繋がったのだと思います。
例えば、日本でグリエル選手があのポーズをしたとして、どれだけの差別的だ、という声があがったでしょうか。
恐らく、「ただのパフォーマンス」程度の認識で終わっていたのだと思います。
勿論、そういう行為はやるべきではありませんが、それに目くじらを立てて「差別的だ!」というのは、果たしてどこから出てきたものなのだろう、と考えてしまうのです。
これについては「良いこと、基本」である常識にも言えると思います。
最近テレビで良く「この言葉は実はこんな意味で、悪い(あるいは良い)表現のように使われてますが、実際は良い(悪い)表現なんですよね。」とか、「このマナーは実際はこうなんですよね」と有識者がコメントするような番組がありますが、これについても疑問があります。
常識や言葉は変化するものだと思います。新しい文化が産まれ、産業が変化し、生活が変わるにつれて、人を取り巻く環境はどんどん変わっていきます。
そんな中で常識や言葉なども変わっていき、多くの人に知られた後で、「実はこうなんですよ、知ってました?」なんて言われても「そのマナーを改めて周知するのにまたどれくらい掛かるんですか?」という話です。
勿論知っておくべきだとも思いますが、一度作った「フォーム」はなかなか変えがたいもの。今通っていることを変えるためにどのくらい掛かるかより、それを徹底し続ける方が建設的なのだと思うのです。
環境、世間に敏感に反応できるのは大事なことですが、「それは現状を変えてまでも貫くべきことなのか」、という事も考えないといけないのかな、と思います。
差別はしてはいけないことですし、常識は覚えるべきものです。
しかし、当事者間でそれが「分かっていなければ」、それは常識でも差別でもない、新しいコミュニケーションになるかもしれない。
今一度、そういった表現への対応を考える場面に来ているのかな、と思います。
1日1更新、途切れてしまいましたが始めていきます。
今日は2本更新で参ります。
MLBのワールドシリーズ、アストロズが優勝でしたね。
7戦にわたる激闘となりました。
先輩のダルビッシュ投手にとってはホントに苦しいワールドシリーズとなりましたが、この試合結果をきっかけに、またこの大舞台に戻ってきてくれると思います。
そんなダルビッシュ投手には、自身の投球以外でもトラブルがありました。
ワールドシリーズ3戦目、ダルビッシュ投手からホームランを放ったグリエル選手が、「アジア人を馬鹿にするポーズ」をとったとしてリーグから処分が下されました。
一方で、された側のダルビッシュ投手はどこ吹く風。
それどころか「彼はここから学ぶでしょう。私達はみんな人間だ。」と神対応ぶりでした。
私もこの話を友達から聞くまでは、グリエル選手の行為が差別表現である、という認識は全くなく、ダルビッシュ投手のコメント、対応を見てもそこまで苛立ちなどを覚えているような印象はありませんでした。
こういう差別的な事に対するアメリカの対応の早さはやはり「人種のるつぼ」ならではなのかな、と思ってしまいました。
私個人の感覚ですが、差別などに敏感なのは、そういう事をしてきた(あるいはされてきた)事が前提にあるのだと考えています。
しかも、それが自分だけでなく、周囲に認知されていること。それが今回でも「これはダメでしょ」という結果に繋がったのだと思います。
例えば、日本でグリエル選手があのポーズをしたとして、どれだけの差別的だ、という声があがったでしょうか。
恐らく、「ただのパフォーマンス」程度の認識で終わっていたのだと思います。
勿論、そういう行為はやるべきではありませんが、それに目くじらを立てて「差別的だ!」というのは、果たしてどこから出てきたものなのだろう、と考えてしまうのです。
これについては「良いこと、基本」である常識にも言えると思います。
最近テレビで良く「この言葉は実はこんな意味で、悪い(あるいは良い)表現のように使われてますが、実際は良い(悪い)表現なんですよね。」とか、「このマナーは実際はこうなんですよね」と有識者がコメントするような番組がありますが、これについても疑問があります。
常識や言葉は変化するものだと思います。新しい文化が産まれ、産業が変化し、生活が変わるにつれて、人を取り巻く環境はどんどん変わっていきます。
そんな中で常識や言葉なども変わっていき、多くの人に知られた後で、「実はこうなんですよ、知ってました?」なんて言われても「そのマナーを改めて周知するのにまたどれくらい掛かるんですか?」という話です。
勿論知っておくべきだとも思いますが、一度作った「フォーム」はなかなか変えがたいもの。今通っていることを変えるためにどのくらい掛かるかより、それを徹底し続ける方が建設的なのだと思うのです。
環境、世間に敏感に反応できるのは大事なことですが、「それは現状を変えてまでも貫くべきことなのか」、という事も考えないといけないのかな、と思います。
差別はしてはいけないことですし、常識は覚えるべきものです。
しかし、当事者間でそれが「分かっていなければ」、それは常識でも差別でもない、新しいコミュニケーションになるかもしれない。
今一度、そういった表現への対応を考える場面に来ているのかな、と思います。
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